不惑なのに、未だ惑っております

今年で四十となる。

父が四十の時に、

不惑ですが未だ惑っております、という渾身?の自己紹介ギャグ(いや、これは定番すぎる親父ギャグなのかもしれない。)を誰かにしていたのを忘れはしない。

どういう意味か父に聞いて、へーと思ったものだ、そして、後後に私も使おうと密かに決意をする。ようやく、その時期がこようとしている。そして記事タイトルへ。

お風呂に入りながら、自分の三十代という10年間を何とはなしに振り返って、

あぁ、もうあれから10年も経つのかと、しみじみ思わずにはいられなかった。

自分の目の前には、自分が10年という歳月を生きてきた間違いのない証とも言えるもの(要は息子)がある。

彼は一生懸命に現在夢中になっているゲームの話を続けている。

結婚生活から始まった三十代。

出産、育児と続いた。

自分の人生に親や兄弟以外の他の人間が深く深く入りこんできたこの10年。

自分の世界が嫌が応にも広げられ、開かされてきた。

自分自身に籠もりがちな自分にとって、そんな感覚が強く、苦しいと感じる日々も多かったように思う。

目の前で、変わらずゲームの話を続けている息子を見て思う。

何もなし得ていないなと、いつも感じがちである自分は、

目の前にいる息子の存在をつい、スルーしてしまう。

息子が軽い存在だというのではない。

自分の人生において、とても重要な位置づけであるのには違いない。

それは間違いないのだ。

でも、それだけでは満足していない自分が、確かにいるのだ。

生物学的な観点から言ったら、

自分のDNAを受け継いだ人間をもうけているので、それで生の目的は果たしているし、それだけでもう充分であり、極端な話、あとはいつ死んでもかまわないのだが、

でも、自分はどうやらそこまである意味楽観的にはなれないようだと感じる。

理由は分かっている。

自己実現への欲求があるからだ。

これもいつかの父が言った言葉と一緒だ。

自己実現

父は、家庭があるからだとか、仕事があるからだとかを言い訳にせず、自分の、ある目標を達成した人だった。

家庭や仕事をほっぽり出して自分の事に専念する父を、子どもの頃の自分は随分と勝手な人間だと思うこともあった。

私も大人になり、少しは父のなし得たとことの大きさを感じるようになった時に父と話した時に、父は、

「自分はわがままなのかもしれないなぁ」

と言った。

家庭を持ち続けながら、自分の自己実現の為に時間もお金も使うのだ。

確かに、、、

「わがまま」で済ませてしまう事もできるのであろうし、そう言う人もいただろうし、自分でそう思う時もあったのかもしれない。

しかし今、その「わがまま」を続け、仕事にしてしまった父を見ると、今、私のやりたい事を貫き通す道を選ぶ自分も、やはりわがままに見えるのかもしれないけれど、

やってやろうじゃないか!と感じる自分がいるのである。

azusa

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